今年初の更新になってしまった。反省してます。

ということで、あの日からもう3年が経った。当時ブログもなにもやってなかったので
あの日のことを振り返ってみようと思う。 

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あの日は有給をとって、夫婦で午後から逗子の不動産屋さんと土地に関する相談や見学をしてた。
営業の方の車で店舗に戻っている途中で

「あれ?パンクしたかな?」

という声と同時に車が横に縦に揺れ始めた。車を止めても収まらない。
ふと窓から外を見たら、植木鉢やら自転車やらが大きく揺れて倒れているのが見えた。

前を見ると電柱が揺れているのがわかった。そしてその直後、すべての信号機が消えた。

しばらくして収まると、周りの家やお店から人が続々と出てきた。
この時点では情報が全くなく、海沿いの町なのに津波のつの字もなかった。
(その後町内放送でアナウンスがあった)


当時奥さんのおなかには6ヶ月の子どもがいた。電車も再開の見込みはなく
夕方に近づくにつれて気温が下がるので、なんとか暖を取れるところを探して
駅前のカフェに落ち着いた(駅と学校以外は全部停電してたので、駅構内のカフェだけ営業してた)

このとき隣に居たご夫人は地震が起きてから1時間以上経ってるのに、電車動いたら
舞台を見に行くと言っていたので、如何に情報が断絶されてたかよくわかる。
(手元のiPhoneで配信されてたNHKの動画見せたら慌てて帰っていった)


なお、電話もメールもダメだったのでTwitterで「無事です」と書いておいたら
代々木公園に避難している最中の後輩が見つけてくれて会社に報告がいったそうな。
そういうことがそこら中であったんでしょうね。


待機してたカフェも残念ながら日没を前にして閉店がアナウンスされ
駅員さんの懐中電灯による誘導で逗子小学校へ避難。
スマホの充電もなくなりつつあったので電源を落とした。結果として情報がなくなった。

避難所で毛布と非常食をもらったが空調は切れていて気温は下がる一方。
時折入る館内放送が、後ろで流れている報道番組の音を拾ってたのだが
映像がないので、避難を呼びかける声だけが聞こえてきた。あれ怖かったな・・・。

とりあえず妊婦の奥さんを毛布でくるんで、各方面に電話連絡を試みる。
が、当たり前のようにどこにもつながらず・・・あきらめかけたタイミングで
川崎に住んでいる兄と連絡が取れた。


兄はいわゆるこういう時にいちばん忙しい公務員なのだが、偶然非番だったところを
呼び出されて家を出ようとしたところに弟からのレスキューが入ったということで
仕事を断って車で救助に来てくれた。持つべきものは兄弟ですね。ほんとに。
(その後兄は福島原発に行ったりで相当大変だったそうだ。詳細は話したがらないので
あまり聞かないようにしている)


川崎から逗子。神奈川県内なのでそんなに遠くないと思っていたが
合流できたのは約3時間後。道はそんなに混んでないのになぜ?と思っていたら
JRの貨物列車が踏切をまたぐ形で停車しており、封鎖されてしまっていたからだった。

未だに目に焼き付いて離れないのが、兄の車に乗せてもらい消耗した奥さんを横にしたあと
車内にあるテレビを見たときの映像だった。そこには炎上する気仙沼市内が空撮されていた・・・。


と、なんやかんやで兄の家に到着して事なきを得た2011/3/11でした。

その後、原発の状況を見て翌月曜には奥さんを実家の九州に帰し、
自分は会社で水を汲んだりとか避難誘導したりとか大阪に長期出張したりとか忙しく過ごしました。
子ども(長女)は7月に無事生まれてきました。

大阪のホテルで寝てたら揺れてないのに揺れてるって錯覚になったりとかいろいろありましたね。


改めて、逗子の避難所で助けてくれた地元の人たち、兄に感謝。
そしてあの地震で亡くなった多くの方のご冥福をお祈りします。


おわり。